写真出典:HMV
今、ジャズライブシーンの水面下で阿部薫が着目されつつある。
1970年代、短い表現者人生を彗星のように賭けていったサキソフォンプレイヤー阿部薫に関する詩作を発見いたしました。
再度、boxinglee氏の詩作として、ここに再現いたします。
永遠の不良少年の星
(阿部 薫 彗星パルティータ 解釈)
そこにはリスが住んでいる。
辺り一帯にちりばめられた
赤褐色の砂利石に混じりこんだ
時間という木の実を食べている。
そんな印象がある、
阿部 薫が創造した惑星、
彗星パルティータ。
彼が放ち続けたアルトの音の一群、
それは、
時間と空間の限界を伝えるためのメディアだった。
「孤独」という以外のなにものでもない
ソロイストとして凛然と存在した、
阿部薫というアルトプレーヤーは、
あふれる音階を、アルトに網羅するために、
「沈黙」という最も早い手段にたどり着いた。
ついでに、自らの命まで
若くして沈黙させてしまったこの男は、
僕が東京へたどりついた20才の頃に、
まるで蜃気楼のような逆さ吊りの人形に見えた。
何故か、すべてがひっくり返っている。
(ライボーの“宙づりにされた架空のオペラを思い出す)
彼のレコードを手に取ったのは、
新宿の地下のレコードショップだった。
一昔前の青春の文化、
その死に絶える風景の象徴となる
ジャズ喫茶では、
阿部 薫のレコードは、
(アルバート)アイラーのスピリチュアル・ユニティーと同様、
タブーの音源だった。
新宿を本拠地とした中上健次の言葉を引用すれば、
耳がそげ、鼻がもげる、
そんな音楽、
だったのかもしれない。
後に言われる天才的ジャズマンは死に、
ジャズという不良文化は、
青年期のようなものから脱しようとしていた。
老いていき、息が上がる。
走ることのできなくなった、
スピードだけを本領とする音楽、
ジャズが歩を進めなくなる予兆として、
ジャズを越えていこうとした、
アルトプレーヤー、阿部 薫は、
青年であることを維持するために、
死んでしまったのだろうか。
あるいは、
別の星にいってしまった。
青年期真っ直中
常に今と違う場所を見つけようとしていた僕には、
そういう解釈がふさわしかったのかもしれない。
その見えない場所こそが、
彼の作り出した架空の星、
彗星パルティータ。
一つ、そのように想定してみたい。
かつてジャズ文化の
キーステーションであるべきはずの新宿に、
1980年、僕は降り立った。
阿部 薫、という名前が
うらやましくて、
僕はきっと、
彼の音を聞くようになったのだろう。
僕は理由もなく、自分の名前が嫌だった。
おそらく、
阿部 薫は、
阿部 薫という名前が気に入っていた、
そうなのではないかと、思う。
(そうとしか思い出せない)
(おおよそ結果論として、名前は人の運命の大半を決定する)
阿部 薫。
一度聞いたら、
思い出さずにいられない、
凡庸でありながら、非凡な名前。
それは両性具有者の魅力に似た
音を生まれ持っていたのかもしれない。
昭和歌謡曲にでも出てきそうな、
女の子のような、その名前で、
カオルという語感そのもので、
阿部 薫という音楽は完成された。
そんな気もする。
もしも、カオルではなかったら。
阿部 薫の音楽は、
少なくとも僕の脳裏に存在することはなかっただろう。
そいつも運命みたいなものだろう。
ともあれ、
阿部 薫という名前で、
僕は、彼のレコードを手にすることになる。
阿部 薫は
アベ カオルという名前で、
新宿のレコードショップをさまよう、
20歳の僕の目の前に現れた。
27才で夭逝した阿部 薫は、
なしくずしの死、という、
未だによむことのない、熟れすぎた果実のように
言葉が爛熟する分厚い書物のタイトルの音源を残して、
この世を去った。
(これからも読むこととのない、セリーヌ)
(思えばセリーヌも、僕の本棚にただ存在するために本を書いた)
(そんな気もする)
モダンジャズという言葉に恋いこがれ、
世の果ての旅への準備をしようという僕を、
一目もおかずに、
この世を去っていた阿部 薫。
かよわく暴力的な知的不良少年。
絵と音のみで想像すれば、
阿部 薫の印象は、その一言につきる。
自転車にのって、
ノコノコと都会へやってきた
僕、という青年。
先だって生まれた彼は、
幼い頃からサキソフォンという
高速のバイクを手に入れた。
自転車で山道を駆け上がる、
田舎の洟垂れ少年を後目に、
彼は、ナナハンバイクにまたがって、
イカシた女を後部に乗せ、
砂混じりの風を残して走り抜けていく、
スピード狂の不良少年。
か細い体躯ながら、
腕力をはるかにしのぐ、音速のパンチが、
縦横無尽に放たれる。
スピードだけで敵を討つという理念をもつ、
ブルース・リーのジークンドーとも
似通っている。
ブルース・リー、阿部 薫、
どちらもスピードだけを売り物にした、
不良少年の美しきなれの果てである。
阿部 薫が残した、
見えない色彩、、
聞こえてこない無数の音色、
デジタル信号の01(ゼロワン)の隙間にも、
ひとカケラすら介在することのない、
その音の一群は、
先駆する者が残す疾風の合間にある
一抹の無風状態だったのかもしれない。
道に取り残された、僕は、
彼が残した膨大な無音という意味を、
その後、今にいたるまで、
別の音で解読するしかなかった。
(コルトレーン)
(アイラー)
(イギー・ポップ、etc.)
モダンジャズなどという、
音楽の名前が、フリークスの固まりだった。
(黒人がマイノリティでなければ、
ジャズは、ジャズではなかったはずである)
あるいは、
ロックンロールという、
肉体のあらゆる神経を逆なでする、
覚醒作用の連続、
一頃、それが阿部 薫解釈の代替えだった。
(ロックの炸裂音が連続するにつけ、
そいつは無音状態になる、
そう思えることがある)
おそらく阿部 薫は、
その女性的な語感の
自己の人称代名詞を
ある種の仮面のようなものの代替えとして、
作為的に利用し、
阿部 薫という
自らの肉体というメディアを利用しつくした。
利用しつくし、
肉体が、先にほろびた。
阿部 薫という音が、
夜空の架空の、
あるいは見えないどこかに存在する
遠く離れた惑星である限り、
今日も、どこかで不満顔の少年が、
見えない地の果てからやってくる
地上にはありえない信号をキャッチして、
煽られ、
バイクにまたがり、
スピードに走る。
そんな青くさい衝動がある限り、
少年は、永遠に少年であり続ける。
彼が行ってしまった星、
それは永遠に老いることのない星、
彗星パルティータ。
そこにはリスが住んでいる。
そのリスは、
不意にジャンプし、
あらゆる引力を無視して疾駆する。
阿部 薫は、それと戯れている。
阿部 薫という
彗星パルティータの住人が、
リスに音の糧を与える続ける限り、
惑星からの信号は、
やってくる。
そして、
地上に音源として残った、
フリーインプロヴィゼーションという、
永遠の不良少年は、終わらない。
音のバリエーションが
膨大に世界に蓄積された現在、
その解釈、
あるいは加工の仕方は無数にある。
阿部 薫の音は、
あらゆるリズムとコード、ビート、
すべてを飲み込んでしまう、
無限大の“無”であったのではないか。
たとえば“ブラックホールの音楽”という
そんな、レトリックが似合うのかもしれない。
地上に居座り、
ジャズという音の自転車をこぎ続ける、
そんな田舎少年が未だ見ることのない
永遠の不良少年の星、彗星パルティータ。
だが、その星の実体を理解してしまう時期が、
僕という、地上の少年に着実に近づいてきている。
無音という一番早いスピード。
それは、
自らが死を遂げるとき、
つまり、時間だけが、証明する。
永遠の不良少年の星、彗星パルティータ。
近頃、それは時として眺める天空ではなく、
ごくごく小さな虫が巣くうように、
自らの脳裏に存在しはじめていることを、
僕は、何気なく実感する。
阿部 薫の音を聴くほどに、
無音が新たな信号を放ち始める。
彗星パルティータは、近づいてくる。
肉体が老いるともに、
自分の中の永遠の不良少年が、
のたうちまわりはじめ、
別のどこかへ旅立つ準備はじめてる。
彗星パルティータは、もはや遠くない。
そういう時が、近づいている。
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