全世界の中でも日本の高校野球ほど異質かつ不思議なスポーツは見当たらないのではないかと、毎年8月になるとテレビ・ラジホにくぎ付けになる人たちを傍目で見ながら、そう思う。
プロ野球の登竜門となるとはいえ、高校生がアマチュア野球をやる。そのシーンの中に日本中の老若男女が食い入り、その顛末に自分の人生を照らし合わせながら、見つめる。
そして、勝利者となったものだけが賞賛されるわけでもなく、また弱者、敗者に向けた賛辞、いわゆる判官びいきが、アマチュア、プロの域を超えた、壮絶な心理ドラマを展開させてしまうこともある。そこに人は引き込まれ、感動し、それが野球の市場を沸騰させつづける。
やや興奮気味に書いてしまうが、また、この熱い夏が来た、と実感させる熱戦が繰り広げられ、後半戦に持ち込まれようとしている。
2019年8月12日、第101回全国高校野球選手権大会第7日において、八戸学院光星は第3試合で智弁学園(奈良)と対戦し、一度6回表に7-1とさらに点差を拡げながら、その後逆転され、さらにひっくり返して10-8で壮絶な打撃戦を制し、3回戦進出を決めた。
この一戦を字面で見ただけで、往年の野球人は、あのじりじりと長い長い夏のあまりにもドラマチックな球宴を思い起こすだろう。
それにしても、八戸学院光星の躍動は、何故に野球ファンの心を引き付けるのか。実は、八戸=青森県、という基盤が生み出す深い想いが根底にあることを、青森県の野球ファンは思い続けているということが、よく言われている。
その根底には、高校野球界全記録の中でも屈指の名勝負と言われる「三沢高校 VS 松山商業」の記憶が強く刻まれていることを改めて熱戦を振り返りながら、検証してみたい。
目次
八戸学院光星と智弁学園の激戦は、土俵際の大接戦
開幕戦に勝利した八戸学院光星(青森)は、今大会49代表最後の登場となった智弁学園(奈良)との激闘を制して2勝目を勝ち取り、3回戦進出を決めた。
序盤は完全に八戸学院光星のペースであった。
初回、二死走者なしから近藤遼一がレフトスタンドへの豪快な一発を放って1点を先制。
3回、武岡龍世がバックスクリーンへ豪快弾。
さらに前の打席で本塁打を放った近藤に適時打が飛び出す。
3点を挙げて4-0とリードを拡げた。
投手の背番号10の左腕・横山海夏凪が智弁学園打線を翻弄し、点を与えない。
5回、八戸学院光星は、味方の失策と自身の制球の乱れで1点を返される。
6回表、八戸学院光星が再び3得点し、7-1と点差を拡げ、優位を増してゆく。
しかし、
6階裏、異変。智弁学園の1年生4番・前川右京が、光星の横川に適時打を浴びせる。
智弁学園“魔曲”の応援歌「ジョックロック」が鳴り響き、智弁学園のペースとなる。
一死一塁から四球・死球・死球でまさかの押し出し。
八戸学院光星は、背番号1・山田怜卓に投手をスイッチ。
光星・山田は先頭を空振り三振に落とすが、その後は2点適時打に四球、味方の失策で1点差と迫られる。
さらには打ち取ったと思ったショート正面への打球がまさかのイレギュラーとなる。
打球はショートの頭上を越えて外野へと抜け、これが適時二塁打となってさらに2失点。
結局、八戸学院光星は、1イニングで7失点を喫し、7-8と試合をひっくり返される。
8回表、しぶとい八戸学院光星。
この日大当たりの近藤が4本目の安打を放って出塁し、二死ながら二塁まで走者を進める。
下山昂大が起死回生の適時二塁打。8-8の同点に追いつく。
9回表、二死ながら満塁。
守備からの途中出場でこの日最初の打席の沢波大和が初球を叩くと、一塁強襲の安打。
弾いたボールが一塁側ファウルグラウンドを転がる間に二者が生還。
一気に10-8と土壇場で再びリードを奪い返した。
まさに相撲でいう土俵際からの大逆転である。
9回裏、山田が2連続三振を奪うなど最後の力を振り絞り、73球の熱投。
リードを死守した。
八戸学院光星は、最大6点差の土俵際まで追い詰められながら、
執念で試合をひっくり返した。
5年ぶりとなる夏・3回戦への切符を掴んだ。
「42年ぶりの決勝進出」「同一カード」「3連続の準優勝」 余りにもドラマチックな英雄チーム
八戸学院光星のプレイが、出場するために野球ファンの心を動かすのには、ドラマチックな要素がある。
そのキーワードが、「決勝進出」「同一カード」「準優勝」と言えるだろう。
甲子園での戦歴を見てみよう。
八戸学院光星は、1997年の第69回選抜高等学校野球大会で甲子園初出場をして以来、春10回、夏9回甲子園に出場している。
そのうちベスト8以上が春1回、夏6回を誇る全国屈指の強豪校として知られる。
2000年夏の第82回全国高等学校野球選手権大会ではベスト4に進出。
準決勝では優勝した智弁和歌山高校に5-7で敗退し、決勝戦進出を逃した。
2011年夏の第93回全国高等学校野球選手権大会では、決勝戦へ進出。
これは青森県勢としては1969年の三沢高校以来42年ぶりのことであった。
決勝では日大第三高校(西東京)に0-11で敗れ、準優勝に終わった。
しかし、同年の第42回明治神宮野球大会で優勝。
2012年春の第84回選抜高等学校野球大会でも、青森県勢として選抜大会初の決勝戦に進出。
決勝では大阪桐蔭高校(大阪)に3-7で敗れ準優勝。
同年夏の第94回全国高等学校野球選手権大会でも前年に引き続き決勝戦に進出し、
春の選抜で敗れた大阪桐蔭と対戦。
甲子園大会において決勝が春夏連続通じて史上初の同一カードとなった。
決勝では大阪桐蔭に0-3で敗れ準優勝。
甲子園大会では史上初の3大会連続の準優勝となった。
時の皇太子さまが発せられた記憶のお言葉「松山商―三沢戦 忘れられません」 / 2009年8月8日
八戸学院光星が、2011年夏、遂に42年ぶりに決勝戦へ進出。
それは、1969年8月18日の試合はの夏の甲子園大会以来、青森県勢としての快挙だった。
その決勝戦は、三沢高校(青森) 対 松山商業高校(愛媛)、決勝戦初の引き分けとなり、試合時間は4時間16分におよんだ。
特に延長15回裏の三沢の猛攻に対し、サヨナラ負けの再三のピンチを松山商が紙一重でしのぐという攻防が展開し、全国の視聴者を釘づけにした。
今では全く信じられないことに速球派の太田幸司投手と制球力重視の井上明投手の完全な投げ合いで9回を終了。0対0のまま延長に突入した。
延長15回、三沢が一死満塁のチャンスを迎える。
三沢高校の9番打者立花に対し、松山商の井上はスクイズプレイを警戒し3球連続でボールを出しカウント0-3となり、押し出し寸前となる。
次の4球目はストライク。5球目は山なりの投球の為に低めに外れそうで微妙だったが、振る気の無い打者に捕手大森はとっさに少し前に出て捕球。
立花は歩きかけたが、郷司球審の判定はストライクでフルカウント。
6球目は投手横にワンバウンドで打球が飛ぶ。井上はボールに飛びついたが弾く。
だが、ライナーに見えたため三塁走者菊池の飛び出しが遅れ、ショート樋野が冷静に本塁へ転送し三塁走者は本塁フォースアウト。次打者はセンターフライで松山商がしのぎ0点に抑える。
続く延長16回も同様の1死満塁の展開になるも、スリーバントスクイズ失敗で併殺に終わり無得点。両チーム無得点のまま延長18回引き分け、翌日に再試合となった。
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翌日の再試合では、疲労の目立つ太田は初回樋野に2点本塁打を打たれた。
本当に信じられないことにい、三沢高校の太田太田幸司は決勝戦を試合を1人で262球投げ抜き、松山商のエース・井上明も一人で232球を投げ抜いた。
さらに驚くことに、再試合となった2日目、松山商は疲れのある井上を休ませ中村を救援させた。
しかし、三沢高校の太田は、試合も全イニングを投げきった。
結局、4対2で松山商が優勝した。
この頃の状況を覚えているのは、おそらく2019年夏、当時小学生低学年、今現在50代以上の方になると思われる。
当時は、本当にテレビ全盛期であり、なおかつ戦後高度調整長期の高校野球の着目度は、年末の紅白歌合戦に匹敵するほどの視聴率。
この三沢高校対松山商業の試合の最中は、全国、特に青森県の街中に人が激減したという記憶の話も聞く。
熱い戦いの記憶は、皇太子さま(現天皇陛下)に語り継がれる
2009年8月8日、第91回全国高校野球選手権大会の開会式に出席された皇太子さま(現天皇陛下)が選手への激励のお言葉を話されました。
その際、1969年の夏の決勝で、三沢高校と松山商とが延長18回の末、引き分け再試合となった名勝負を思い出深い試合であると話されました。
皇太子さまは、当時は9歳でテレビで試合の行方を見守ったということ。
つまり、現天皇陛下と同年代の方々の多くは、強くこの一戦を心に刻まれて生きてきたのだと考られる。
2019年8月14日現在、第101回全国高校野球選手権大は、台風10号の接近に伴って悪天候が予想されるため、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で15日に予定されていた3回戦4試合を16日に順延すると発表した。
以降の日程は1日ずつ順延され、準々決勝翌日と準決勝翌日の休養日はそのままで、決勝は22日となる予定である。
明日に控えていた八戸学院光星の3回戦、対海星(長崎)戦は16日に延期となる。