1960年代以前に生まれ現在50代後半以上の方のおそらくはほとんどの方がCMのメロディーとともに記憶に残っている人物が、ボウリングの中山律子さんだ。1970年代のボウリングブームを実力と美しい容姿で支えた中山律子さんは現在日本プロボウリング協会の中山律子名誉会長。彼女のプロ50周年を祝う記念パーティーが22日、川崎市内で開かれた。
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中山律子の知名度を牽引するコマーシャルソング
1970年代のボウリングブームをけん引した中山律子さん。
「りつこさん、りつこさん、さ~わ~や~か~、りつこさん」
当時誰もが、「りつこさん」といえば「中山律子でしょ」と返ってくるくらいの知名度だったのは、当時のコマーシャルソングで歌われたこのフレーズが起因したものだった。
日本中、どこの町でも、街中に、あるいは郊外にボウリング場が立てられ、人があふれていた時代があった。その人気を引っ張ったのが当時の日本ボウリング界のトップスターだった中山律子は端麗な容姿とともに、このコマーシャルソングのメロディーとフレーズとともに、庶民の記憶に刻まれていったのである。
50周年記念パーティーにおいては、そのテレビコマーシャルのフレーズ「リツコさん、リツコさん、さわやかリツコさん」を全員で歌う場面があった。手拍子をして口ずさんだ中山さんは「これからも一生楽しく、ボウリングをしていきたい」と語った。
人気が実力よりも先行したプロボウラー1期生がボウリング界を牽引する
中山さんは69年にライバル須田佳代子とともに女子プロボウラー1期生となり、70年に女子初のパーフェクトゲームを達成するなど空前のブームを引っ張った。実際のところは、プロになるアマチュア時代には試合に出るたびにことごとく須田佳代子に首位の座を奪われていた。
1968年東京タワーボウリングセンターにスカウトされての入社した翌年、1969年6月に第1回女子プロテストが開催され、中山は3日目までトップだったが、須田開代子に最終日に逆転され、結果は2位合格でプロ入りとなった。その後、中山律子は、須田とは終生のライバルとなり、さまざまな大会で接戦を繰り広げたトップの座を奪い合った。
そしてその美貌と名声とともに数多くの女子プロボウラーの中で歴史に残る史上最強の女子プロと呼ばれ、同期の須田らと共に爆発的なボウリングブームの立役者となった。
また当時東京の観光名所として時代を象徴するは「東京タワー」が所属先であることから、その文字が描かれたボウラーシャツをユニフォームとし、東京タワーが中山のトレードマークとなった。その時代性、今風に言えばトレンド性も中山律子の人気を支えるものとなったと考えられる。
近年は下火となったボウリング界の普及活動に注力する
のちに次第にボウリングはかつての隆盛を忘れたように下火となり、ボウリング場と利用人口も加工してゆく。その中でも、中山律子の名前と人気だけは過去を知る人たちに存続していた。
そして、のちに須田と共にジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC、女性だけのボウリングクラブ「ジャパンレディースボウリングクラブ(Japan Ladies Bowling Club)」の設立に尽力する。
須田の死後はJLBCの会長に就任し、1990年代に負傷で一線を退いてからは普及活動を中心に行い、2004年には女性ボウラーでありながら日本プロボウリング協会(JPBA)の会長にも就任。ボウリングの普及やスポンサー探しなど多面的に活動を続けている。
一抹の無念をスポンサー不義理事件
近年の中山律子の汚点となってしまっているのが「スポンサー不義理事件」である。
ことの成り行きは、中山律子会長が日本プロボウリング協会(JPBA)のメインスポンサーであったDHCに無断でライバル会社のCMに出演してDHC側が激怒した事件のこと。 これにより、DHC後援の大会が中止となり、JPBAで内紛がおきて一部役員が離脱し、DHCのスポンサードにより新たな女子ボウリングの組織LBO(Ladies Bowling Organization of Japan)設立に至った
LBOはその後、2013年末をもって解散した。
奇しくもこの日はボウリングの日
中山律子50周年パーティーが行われた6月22日は、であった。
その日の由来は1861年6月22日、江戸時代、日本の長崎に初めてボウリングが伝わったことにある。これを記念して、日本ボウリング場協会(BPAJ)が、1972(昭和47)年に、この日を「ボウリングの日」と制定した。
当時のボウリング場は外国人居留地内に開設され、プレーの合間に軽飲食もできるなど、外国人たちの人気の社交場だったようです。大正、昭和に入って、どんどん日本人の間にもボウリングが広まり、今では誰からも愛される楽しいスポーツとなった。その延長線上に昭和高度成長期における中山律子の人気とともにあるボウリングブームがつながっているわけである。
ちなみに、長崎出島には「ボウリング発祥の地」の記念碑が建てられている。
中山さんの談「みんなに会うことが一番の元気の源。子どもたちに教えることでエネルギーをもらっている」
かつてのようなボウリングは下火の時代を終え、今、定着している。何もない状態から、スポーツとして、また手軽な娯楽としてのボウリングは、やはりゴルフに通じるコミュニケーションスポーツといっていいだろう。
老若男女がの友人が、家族が、ご近所が、同僚が、集いながら楽しめるスポーツとしてのボウリングをこれからも「さわやかりつこさん」がさわやかに引っ張っていだたくことを希望にしたい。
中山律子 – Wikipedia